貴方は、初対面の僕に惜しげもなくその美しい涙を見せた。
「森を救って」
そう言って泣いた貴方の涙を、僕が忘れられるはずもなく・・・
そして、貴方の手にした一枚の写真で、僕が壊れたのは言うまでもなかった。
−天気雨−
晴れた午後。二科医局の窓際に座り、一冊の写真集を眺めている獣医師が一人。フワフワと柔らかそうな髪が日に透けて、いつも優しい雰囲気を更に優しくしているように見える。
医局のドアが開き、新人の岩城鉄生が入ってきた。
「あれ?何読んでるんスか?」
興味深げに覗きこんでくる岩城に、木々樹はにっこりと微笑んで答えた。
「僕ガ尊敬するフォトグラファーが最近出した、写真集デス」
「へー。・・・木っていうか、森の写真ッスね。」
「エェ。彼女ノ写真は、木々の声が聞こえてくるような、そんな素晴らしい写真なんデスヨ。昔、一緒に仕事をしたことがありマス・・・」
外を見やりながら、思い出すかのように木々樹は語りだした。
それは、カナダへ出張に行く前の最後の仕事だった。応接室に呼び出された木々樹は、ソファに院長と向かい合わせに座る、美しい女性を目にした。
漆黒の髪を高い位置で束ね、漆黒のビロードのように揺れていた。その潤んだ瞳と目が合った瞬間、何かにとりつかれたように彼女から目を離すことが出来なかった。
「彼が、樹木医の木々樹リン。この問題は、彼に解決してもらいたいと思います。」
院長が、自分のことを紹介しているのを聞いて、ソファに近寄りながら軽く会釈をした。
「木々樹リンデス。樹木に関してノ御依頼デスカ?」
「はい・・・。」
そこまで話すと、院内アナウンスが入った。
『院長先生、至急二科医局までお越しください』
それを聞いた院長は、慌ててソファから立ち上がる。
「失礼、呼び出されたので・・・あとは、この木々樹がお話を伺いますので。頼んだぞ、木々樹。」
「ハイ。」
院長は慌しく応接室を後にした。
あとに残されたのは、木々樹と美しい女性ただ一人。木々樹はとりあえず院長が座っていた位置に腰を下ろすと、ちらりと向かいに座る女性に視線を移した。
女性との付き合いが今までなかったわけではないが、一目見ただけでこれほど心が高鳴る相手は初めてだった。
女性はなにやらゴソゴソと鞄の中を漁っている。
「私、こういうものです。」
差し出された名刺には、美しい森の写真と、『フォトグラファー ハナミズキ』と印字されていた。
「ハナミズキサン・・・貴方、本当にハナミズキサンなんデスカ?!」
木々樹が驚いたのは、自分が「ハナミズキ」というフォトグラファーの写した写真が好きで、「ハナミズキ」の出した写真集は全て持っていたからで。その写真は、写真であるにも関らずまるで深い森の中にいるような、そんな気持ちにさせてくれる写真ばかりだったから。彼女の写真を見ていると、心なしかその森の木々の声が聞こえてくる気さえした。
「はい。本名はと申します。」
深々と頭を下げたその女性のしおらしさに、木々樹は自然と心を惹かれて行く様な感じを覚えた。
「僕、貴方ノ写真集、全部持ってるんデス!お会いできて光栄デス!!」
森の写真を撮り続けるフォトグラファー、ハナミズキの依頼とは一体どんなものなのか。森を見続けている彼女が依頼してくるとは、一体何が起こっているのか、それをフッと考えた木々樹は、不安な気持ちに襲われた。
「それデ・・・今日は一体どんな御依頼デスカ?」
不安を感じつつも話を聞かなければ何も始まらない。
「この写真をご覧になってください・・・」
が鞄から出した写真に、木々樹は固唾を呑んだ。立ち枯れの森・・・木肌を露出させた痛々しい森の様子。木々樹の胸がザワザワと騒ぎ出す。
「お願いです・・・この森を救って・・・」
ツーっと一筋。の頬を水滴が通り過ぎた。
あまりにも洗練されたの技術。その技術が、木々樹の心の傷を開いてしまったとは知らず、はただ涙を流した。
オサエナケレバ・・・
木々樹は自分の理性を保つために、心の中で葛藤していた。人間を憎む自分と。きっと今人間を憎む自分を解放してしまったら、この森を愛する写真家を殺してしまいかねないから・・・。
「ここは・・・私の故郷の山の中の原生林・・・だったはずの場所なんです。いわば、写真家としての私の原点・・・久しぶりに行ったらこんな状態になってました。お願いです・・・世界的にも力のある、木々樹先生にこの森を救って欲しいんです。お願いします・・・!!」
「・・・人間ハ都合のイイコトばかり言いマスネ・・・」
「え・・・?」
写真を眺めていた木々樹の目が変わった。木々樹の耳には、聞こえるはずのない森の木々の悲鳴がけたたましく鳴り響く。その森にいる訳ではないのに、その悲鳴は彼の理性を壊す。そこには理性的な彼の姿はなく、ただ憎しみに支配されたその表情を浮かべた男が立っているだけだった。
「森が枯れたノハ人間の所為ダ!自分ダッテその人間の一人ナノニ、ソレを棚に上げて、森を救えダト?偽善者ぶるノモいい加減にシロ!」
それでも彼女に手を上げなかったのは、きっと心のどこかで理性的な自分が人間を憎む自分を抑えていたのだと。木々樹は信じて疑わなかった。
「そうです!木が枯れたのは人間の所為!森がどれだけ偉大な力を持つか知らない浅はかな人間が森を枯らすんです。でも、私も貴方も、森がどれだけ偉大なのか知っている。私が写真を撮り続けるのは、森を守りたいから。少しでも多くの人に、森の大切さを知ってほしいから。でも、守れず枯らしてしまった・・・。私には森を助ける力も、技術も、知識もない・・・。だからお願い、森を救って!」
その魂の叫びが、木々樹の心の奥底に響いたのか。一度気を失わなければ正気に戻らない木々樹が、フッといつもの木々樹に戻った。そんな経験は、木々樹も初めてだった。きっと彼女の熱意が彼を引き戻したのだろう。ハッと我に返った木々樹が見たものは、泣き崩れるの姿だった。
「スイマセン・・・乱暴ナ言葉を・・・」
木々樹は口篭る。ハンカチを鞄から取り出して涙を拭いていたは、苦しそうな笑顔を浮かべた。
「いえ、貴方の仰っていることは間違いじゃありませんから。」
その苦しそうな表情をさせているのが、さっき自分が放った言葉なのだと分かっている木々樹の心は、キリキリと痛んだ。
「スイマセン・・・」
謝るしか出来なかった。彼女がどれだけ森を、自然を愛しているか、写真を見れば一目瞭然だった。その写真は全て温もりに包まれて、まるで大きな森に抱かれているような気持ちにさせてくれる写真ばかりだったのに・・・自分は彼女に罵声を浴びせたのだ。あれほど尊敬していた写真家を。
「サン・・・いえ、ハナミズキサン。貴方は、森を救う技術も知識もナイと言いマシタ。ケド、貴方ニハ、人を感動させる力がアル。これは僕ニハないものデス。貴方が訴えることをやめなけレバ、きっともっと多くの人ガ僕達の考えに賛同してくれるハズデス。ダカラ・・・この仕事、お受けシマス。」
の顔に光が戻った。
「ありがとうございます・・・!」
はまた涙を流した。今度は、嬉しさに顔を歪ませた、まるで天気雨のような涙だった。
「・・・とマァ、こういう経緯デ一緒に仕事をしたんデス。」
「その森はどうなったんスか?」
「それが、この写真集の森デスヨ。」
岩城は手渡された写真集を開いて、見入った。若い木々が生え、小動物が走り回るその若い森の写真に、思わず顔が綻ぶ。ページを最初に戻すと、恐らく依頼のときの持ってきた写真であろう、ひどい立ち枯れの森の写真があった。
「彼女は、ライフワークとして、あの森の写真を撮り続けるみたいデス。」
「へー、すごい人ですね、ハナミズキさんって。」
「彼女は森の中デ生まれ育ちましたカラ、育んでクレタお礼をしたくて、『ハナミズキ』という名前をつけたらしいデスヨ。」
「へ?」
「『ハナミズキ』の花言葉は『返礼』・・・礼を返すというものデスカラ。」
「あぁ、なるほど!」
そんな会話をしていると、一人の看護師が木々樹先生に客だと、一人の女性を連れて現れた。
「?どうしたんデスカ?」
「久しぶり、リン。カナダから帰ってきたと聞いたから、会いたくて来ちゃった。」
にっこりと微笑むその女性に、岩城は初めて会ったにも関らず、初対面ではないような気がしていた。少し考えると、その答えは自ずと見えてくるもので。
「もしかして、ハナミズキさん?」
「そうデス。」
「初めまして。リンの恋人のです。」
「こ、恋人〜?!」
「えぇ。さっき話した仕事のとき、一線越えちゃいましたカラ。」
頬を赤らめながら嬉しそうに語る木々樹に、何も言えない岩城。真っ赤になってどついているのは他でもないハナミズキ、その人である。
「あれ・・・」
ふと、が岩城の手に目をやると・・・そこには、自分の写真集があった。
「それ・・・」
「あぁ、僕のデス。」
「なぁんだ・・・プレゼントしようと思って持ってきたのに、先に買っちゃったのね・・・」
ショボーンとしてしまうに、慌てたように木々樹が取り繕った。
「じゃあ、ソノ写真集は岩城くんに・・・というか、永田似園の子達にあげマス。勉強にもなるでショウシ。その代わり、が持ってきたのを、僕にクダサイネ?」
「ん・・・」
にっこりと微笑んだの嬉しそうな顔は、天気雨のあとのまっさらな空のようだと、岩城は人知れず感じていた・・・。
その写真集の題名が「凛」という知る人が見れば恥ずかしい名前だと言うのを岩城が気づいたのは、しばらく経ってからのことだった。
長!!!
初WL夢は愛しのリンリン(爆)。
これからばんばん増やすぜ増やすぜ!